開学の精神

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校祖 幸田たまと開学の精神

校祖 幸田たま
 幸田たまは明治21年12月12日、兵庫県美嚢郡吉川町湯谷で、父・松尾作太郎、母・松尾ふじの十人兄弟の長女として誕生しました。中吉川尋常小学校四年課程を卒業し、隣村奥谷部落の「清原つち」の和裁塾に学びました。意思強固で精緻な技芸をもちながらも人間的で包容力に富んだ「清原つち」の人柄に接した幸田たまは、ここで人生観や人間観を養い、すぐれたパーソナリティを形成していきました。

 幸田たまは妙齢にして兵庫県教員検定に合格し、多紀郡味間小学校(篠山市)、有馬郡三輪小学校(三田市)に裁縫教師として奉職し、教育実践の技術と学校経営について研鑽を積んでいきます。そして、早い時期から日本一の貿易港・神戸への関心を抱いていた幸田たまは、30歳の時に神戸へと出発していったのです。

 こうして誕生した裁縫女塾では、幸田たまが目指した教育目標のひとつである「まことの近代女性の育成」を基に、最も進歩的であった神戸にふさわしい教育内容が展開されていきました。たとえば、技術教科では邦文・英文タイプライターの修得や、知育教育では英語・文学・世界史・経済学・社会思想史などが講義できる教員を多く集めたこと、徳育では「不撓不屈」の精神を校祖自身が実践的に教育し、体育では近代女性としての体位向上を目指して運動クラブを盛んにしていきました。こうして幸田たま教育は広範囲に伝達されていき、神戸市内はもちろんのこと、兵庫県全域から子女が集まってきたのです。

 幸田たまは、急激に増大する学園の経営にあたり、国家レベルで鼓吹されてきた良妻賢母論とはニュアンスを異にする「賢母良妻論」を主張しました。すなわち、知性を磨き、才知に長ける女性こそが真に賢き女性である、という主張です。「女は(社会的に)弱きものにして最も強き力を持つ」という言葉からもわかるように、知性に裏うちされた実践力こそが幸田たまの真髄であり、女子教育観であったのです。

 学園の底流にあるものは、何といっても校祖・幸田たまが目指した「まことの近代女性の育成」です。校祖が生涯をかけて実践していったこの精神こそ、90周年を迎えた現在の学園が継承していかなければならない「まこと」の精神であると確信しています。